2005 年春 4年生 文集
- アビゲイル・ヤング 「日本の方言」
- アレックス・ホワン 「アクセントから日本語にの影響力の仮説」
- ヴェニュ・ダナラジュ 「木村拓哉と日本社会」
- 清田 建 「谷崎潤一郎:日本の有名な作家」
- ザッカリ・カー 「Pound and Profound」
- ジェイミー・スコット 「日本昔話と社会の役割」
- ジョナサン・トワンブリー 「相撲はなぜ人気がないのか?」
- 杉本 祐里佳 「靖国神社の議論」
- チョウ・イー 「日本のいじめ問題」
- トレント・ドレイク 「『アフターダーク』における村上の人称代名詞の変化」
- 古井 智子 「浜崎あゆみの魅力」
- ブレット・ブッジーニ 「日本における1960年代 の思想史」
- マイク・クラフト 「京都議定書」
- マシュウー・ブラック 「坂口安吾の天皇制思想について」
- ローザ・ソブリノ 「JETプログラムの経験について」
アビゲイル・ヤング

方言とはどんなものなのか。方言を定義するのは難しいことだが、もし方言を一言で説明するならば、方言とはある地域で使われている言葉、その地域の人たち の生活のことばである。それぞれの地域に、その地域社会の言語があり、地域社会の人々の集団生活のことばがある。すなわち、「地方生活語」があり、それが 方言である。
現代の日本の方言がなぜ今のようになったのかについて歴史的な点から説明したい。言葉は人が地域から地域に移ることに よって変わっていく。昔は交通や通信が発達していなかったため、人の移動によって地域ごとに言葉が変化し方言が生まれた。現在では、方言は昔ほど使われて いない。それはなぜかというと、戦前から標準語重視の国策があったためである。けれども1989年から学校教育で方言の重要さや役割を見直し、方言と標準 語を使い分けることが国の方針に盛り込まれた。日常生活において、社会的、公的な場では標準語を使い、私的な場、親しい間柄では方言を使うことが奨められ た。
方言はコミュニケーションにおいて個人的にも社会的にも重要である。なぜなら、方言は個人のアイデンティティーを意識させるものの一つである し、方言で相手のアイ デンティティー(出身地や、文化的・地域的背景)を連想したり、推測できる。つまり人々の間のコミュニケーションに大きく関わっているのだ。例えば、初め て会った人でも同じ方言を使っていると、そうでない場合よりも速く親しくなれるということはよくある。その逆の例として、方言が違う人の間では距離を感じ ることもある。方言で勘違いすること、相手が話す方言によって、性格や背景を決め込んでしまうこともある。具体的に言うと、関東の人が東北弁を聞いて、相 手は田舎者だと思ったりすることである。関西人が関東の人の喋り方を冷たく感じるのも一つの例である。

地域に よって方言は大きな違いがある。「この言葉は○○弁で、何というのかな」とか、聞いたことがない表現を耳にするなどという経験は誰にでもあるだろう。関西 弁から日本語を覚えた私の場合、今まで標準語だと思って使っていた「めっちゃ」という言葉が実は大阪弁だったという経験がある。これは標準語でいうと「と ても」という言葉であるが、名古屋弁では「どえりゃー」、北海道では「なまら」という風に同じ意味だが全く違う言葉になっている。
日本語を 学んでいる外国人は、教室で習った言葉は標準語だと意識していない。外国人はどうやって標準語と方言の違いを意識するのか。それは身近な日本人が使ってい る言葉と学校で習った言葉との違いに気づいて、方言を意識するのだ。その逆の場合もある。自分が方言だと知らずに習った言葉が学校で習った言葉と違うこと に気づくこともある。
私の場合 も標準語と関西弁を使い分けている。真面目な話をする時や関西以外の人と話す時はやはり標準語を使い、友達などと話す時は気楽に関西弁を使う。 なぜなら ば、話し相手が関西の人ではない場合に関西弁を使うと不真面目だと思われるかもしれないからだ。他の人にとっては関西弁は漫才などのイメージがつよいの で、軽薄な印象を与えると思う。しかしこういうイメージがあるからこそ、テンション(緊張感)を解くとか、盛り上げるためなどに私は関西弁を使うようにす ることがある。また、私が話し相手と距離を置きたい時、関西弁を使う場合もある。
私がなぜ 方言というテーマを選んだかというと、方言は自分の日常生活に関わっているものであり、方言について詳しく知ることが自分をもっと理解することを可能にす ると思ったからだ。私は標準語と方言の違いを意識し、うまく使い分けることで、他人との関係を築いていきたいと思っている。
参考文献:
・ 「方言研究 ハンドブック」 藤原与一監修・神部宏泰編 昭和59年 和泉書院
・ 「方言の現 在」 小林隆・篠崎晃一・大西拓一郎編 平成8年 明治書院
・ 「全国方言WEB ほべりぐ」http://hougen.atok.com/
アクセントから日本語にの影響力の仮説
アレックス·ホワン
特別なアクセントを聞くと、相手についてある程度の判断ができる。まずは相手はどこの人、既に社会でどんな枠の人、それで相手の育った環境などと、次から 次へと続く。一瞬にして先入観を持って相手を分析してしまう。これは差別とも言えるけれど、多くの人にとっては、避けられない傾向で、アクセントさえ聞け ば、相手の顔を見ていなくても、個性を知らなくても、自分の社会に対する認識で相手の社会的階級を考えるようになりがちである。確かに、あるアメリカの研 究では、同じのスピーチをエボニクス(黒人英語)か標準とされた発音の英語で話すと、後者の方が説得力があると思われている。 (Payne) この例で、同じの英語でありながら、特別なアクセントを持 つ黒人英語から出て来る連想のため説得力が変わる。
先日アクセントについて講演した田中先生の話では、セルフイメージもアクセントと共に変わるものだ。自分と違うア クセントを学んで使えばセルフイメージがよくなるかならないという二つの可能性がある。よくならない場合、自分と違うアクセントを使う動機は一時的で、例 えば、俳優が仕事で他人を真似する必要がある時などは、他のアクセントを自分の物としていないから、アクセントから来るセルフイメージへの影響は限られて いる。
但し、他のアクセントでセルフイメージを上げることがで きる場合、それを使う動機は長期的で自分のものとして所有したいと話し手は考えるだろう。それからアクセントだけではなくて、セルフイメージを完全に理想 的なイメージに近づける為にマナーや態度までも変える。同様に、それほど理想的でなかったセルフイメージの性質が捨てられつつある。最近日本で人気が上っ ているヒップホップカルチャーにもこのような現象が見える。ファン達はヒップホップのスタイルを真似したり、ヒップホップの歌を聴いたり、ヒップホップの ダンスをしたり、これまで主流とされたイメージを捨てて、ヒップホップのイメージに近づこうとする。
また、言語とアクセントについては英語が一番説明しやす い。今世界の標準語とされている英語は話せる人の数がどの言語によりも高いからと言って、学びやすくて最も効率的な言語だとは言えない。英語は色々な歴史 的、経済的、政治的な理由で今日の一番目の地位になったのだ。強ければ強いほど目立つもので、英語が使いこなせることは進歩することと等しいとされ、つい に理想的な言語とされている。これからも、強い方が強くなり、拡大し続ける。
English and Globalizationという本の中のエッセイで今の現象を言語の帝国主義(Linguistic Imperialism)と呼ん でいる。いわゆる言語的帝国主義とは、外国の言葉が侵入することにより、三段階の過程で植民地化するという考えだ。まず、侵入者は植民地の住民に新しい言 語を押しつける。それにより、地元で新しい言語を使える人がローカルのエリート・クラスとされる。次に、イデオロギー的説得という階段で、地元は自ら入っ てきたその言語を支えて拡大しながら、地元の言語が失われていく。(P70―71)
Kachru氏が今の各国の英語の関係配給を三つの同心円で表す。Kachruの概念を伸ばしたDavid Crystalの図は次の通り。Crystal氏の図で、中心サークルは、元々英語を使っている国で、世界中の英語の標準を定義している国で ある。すなわち、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドのことだ。次に、外側サークルは元々は英語国ではないけれど、既に英語を 国定の公用語としていてる国で、インド、ナイジェリア、シンガポール、マレーシアなどを指す。最後に、一番外に拡大しているサークルでは、英語は公用語と されていないけれど、使える人と学習者がたくさんいて、業界や学術ででもよく使われている国を示す。例えば、中国、ロシア、日本、韓国などはそういう国で ある。Model of English as a Global Language, 1997 (P7-9)
あるニュージーランドとオーストラリアで行った研究によると、この両国ではアメリカン英語が 一番好みだと思われる。両国とも中心サークルの国でありながら、アメリカのメディアを通してアメリカの標準を気づかないうちに受け入れ、アメリカ英語と 違ったアクセントの英語を話すことで、自分のアクセントも無意識的に変わっていくわけだ。(Bayard)
ニュージーランドとオーストラリアなどの中心サークルの 国は同じ言葉を話して同じ文字を使用するから互いに影響しあうのが簡単だが、英語と全く関係のない日本語の場合、カタカナで書いた言葉は見ただけで読み方 が分かるから、アルファベットのように使えて、英語からの新しい言葉も簡単に表せて、影響を受けやすいわけだ。
それでは、アクセントからの影響はどうだろうか。確かに、アクセントは言語の属性の一つだけれど、コミュニケー ションの仕方がセルフイメージを変える大変大きな力を持っているという事実を示している。けれど日本と中心サークル、または外側サークルの国と比べると一 つの違いがある。日本語の文字が違うから、日本語は英語のような発音とアクセントに変わりにくくて、英語のような言葉を移植するのが早い。同一言語内での アクセントの変化はセルフイメージに強く繋がっているが、外来語からの影響という点では言葉を直接に移植するということはそれだけでなく、回りの世界を構 成するという役を務める「思想」の方に強く繋がっている。つまり、外国語が日本語へ与えるアクセントの変化はあるにあると言えるが、言葉の引用は遙かに大 きな影響力がある。
言葉により当然、思想や文化が入り込むか ら、近代の英語ができるようになった人が一つの新しいツールを手に入れるだけでなく、中心サークルの考え方も学んだ訳だ。また、それに、外側サークルの もっと外に位置している日本は中心サークルの国から影響を受けることはできるが、逆に日本から中心国への影響はない。つまりこの相互作用の力学では、悪く 言うと、日本はどうでもよいという存在である。
木村拓哉と 日本社会
ヴェニュ・ ダナラジュ
木村拓哉 は千九百七十二年に東京で生まれた時俳優のようにウインクしたと言われている。それに頭がよかったが学生の時他の学生とよく喧嘩したそうだ。子供の頃から 木村は自分の運命が色々な規則に従って平凡な生活することではないと知っていたのかもしれない。木村のおばさんも多分そう思って、木村の写真をタレント・ スカウトに送ったそうだ。だから、おばさんのおかげで木村は有名になったと言える。なぜかというと、タレント・スカウトは木村の外見が気に入って木村に オーディションのチャンスを与えたからだ。木村はもちろんオーディションに成功してSMAPに入った。 その後に起こったことは歴史だと言える。
SMAPは日本人に とって最高だった。SMAPは歌うだけ ではなくドラマやコマーシャルやバラエティーショーをして、人気が昇った。木村はSMAPの人気を バックに自分の俳優の仕事を始めた。木村が初めて出演したテレビドラマの題は「危ない少年三」だった。それに「君を忘れない」という映画にも初めて出演し た。千九百九十五年には木村の顔はポスターやコマーシャルやドラマや映画などどこででも見られたが、特にコマーシャルでは木村のセックスアピールと変なと ころを見せた。例えば、カネボウという化粧品会社のコマーシャルで木村は自分の顔に口紅を塗りつけたし、他の化粧品会社のコマーシャルでは木村は女の人の 体に口紅を使って絵を書いた。全国の視聴者はそのコマーシャルがすごく好きだったそうだ。でも、そのようなコマーシャルをしたから木村が化粧品をよく使い たがっているという噂が始まったのかもしれない。
化粧品に 対する興味以外に木村はスポーツに対する興味もはっきり見せている。サーフィンとスノーボードなどが得意で、スタントマンを使わないで自分でスタントをす ることが多い。例えば、「眠れる森」というドラマを作っていた時木村が怪我をした理由は自分でスタントをしたからだ。インタビューの時、木村はその事件に ついて「怪我は大したことはなかったです。でも、病院で取った休息がとてもよかった」と言った。木村の生活について調べるとすぐ木村は心が優しくて冗談が 好きで有能な人だと分かる。
その性格 は「ヒーロー」というドラマによく出てくる。最近東京に転勤した検事として、他の検事と違う服装をして、よく調査をして色々な事件について適切な判断を下 した。最初に同僚に変だと言われてもぜんぜん気にしないで、結局自分の立派な仕事によってその同僚の尊敬を得た。一つの事件の判断についてマスコミや上司 に非難されても、冗談を言いながら自分が間違った判断をしなかったことを証明した。木村がドラマで演じた役は彼自身の現実の性格に似ていると思う。他の例 は 「グッドラック」というドラマで演じた役だ。木村は最初にパイロットとして有能ではなかったけれど、自分の考えを大切にして、上司が決めたいろいろな 規則に従わなかった。その結果、同僚の尊敬を得た。そして、最終的に立派なパイロットになった。

ところで、 中根千枝によると、日本人は一定の個人を他から区別しうる属性による基準のいずれかを使うことによって集団を構成する。もちろんそのようなことがあると思 うけれど、「ビューティフルライフ」という木村のドラマの人気は日本人が社会的な色々な差別に反対し始めていることの証拠ではないか。日本社会では身体障 害者は他の日本人から厳しく差別され、集団でよく無視される。しかし、日本人は心の深層でそのような差別が人道的ではないと思うからこそ、ハンサムな木村 が身体障害者のある女の人を恋するようになったドラマを温かく歓迎したのである。集団行動を好むと言われている日本社会が木村本人と木村が出てくるドラマ を好んでいるのは驚くべきことだ。木村本人と木村がドラマで演じた役が表す考えや行動は、個人の権利を大切にするアメリカ社会がヒーローに対して持ってい るイメージに似ているからだ。だから、本当に日本社会が集団行動を尊重しているなら起こり得ないことだと言えると思う。集団行動を好む社会では木村のよう な俳優は人気が出ないだろう。つまり、木村の人気は日本社会が変わっていることを示しているのではあるまいか。
谷崎潤一 郎:日本の有名な作家
清田建

谷崎潤一郎は今世紀の最も有名な作家の一人である。1886年東京で生まれそこで育てら れた。谷崎の父親は印刷業の商売をしていて谷崎の子供の頃家族は中流であった。父親との関係は弱くはなかったけれど、母親との関係のほうが深く親しかった と言われている。母親は谷崎を六才ごろまで赤ちゃんのように扱っていたと信じられている。
谷崎は子供 の頃から芸術に興味があった。それはよく両親に日本の芝居を見に劇場へ連れて行ってもらったからであろう。谷崎は普通の教育を受けて東京の大学に入学し た。日本文学を数年勉強したが、両親が学費を払いつづけられなかったから、大学を卒業する前に勉強をやめざるを得なかった。それでも文学に対する興味がな くなったというわけではなかった。谷崎は大学の教育がなかったのにその後本当に上手な話や小説を書いた。
話を書き始 めた時から1965年に亡くなるまで谷崎は多くの話を書いた。最初に有名になった話は「刺青(しせい)」という小説であった。1910年に書かれた「刺 青」は、絵の上手な芸術家が美しい女の人の身体にすばらしい刺青を描いて、その刺青のせいでその女の人の生活が変化し始めるという話である。そのほかにも 有名な小説をたくさん書いた。たとえば、1924年の「痴人の愛(ちじんのあい)」や「細雪(ささめゆき)」などがある。この二つの小説は谷崎のそれ以前 の多くの小説と同じように日本の伝統的な考え方と西洋的な考え方の矛盾や問題を表している。
例えば「痴 人の愛」ではサラリーマンの男の人が洋風の物事が好きな若いナオミという女性に会って愛するようになる。その男の人はナオミを子供のように世話をして洋風 のダンスと英語のクラスをとらせる。男の人はナオミの服や食べ物などを買うためにお金を全部費やしてしまい、最後はナオミの使用人のような役割になる。こ の小説ではやはり洋風の生活の一つの問題、つまり男の人が女の人より弱くなり自分に自信がなくなるということを表している。
でも、どう して谷崎はそんなに有名になったのか。やはり、面白く上手な話が書けたからだと言えるが、もう一つの理由は谷崎はいつも現在の大事な問題について書いたか らだ。例えば西洋からの文化的な悪い影響以外に谷崎は人間関係にも強い興味があった。特に母と息子、父と娘の関係についてのトピックが多くの谷崎の小説に 表われている。たいていそういう関係はフロイドの理論を基にして、つまり谷崎が創造した人間関係を見るとその登場人物のこころの底にあるコンプレックスが 見えるのである。例えば、息子はお母さんに対する強い愛を感じていて大人になって母親と離れた後、女性との恋愛で母親との関係のようになりたがることはフ ロイドの一つの理論であり、多くの谷崎の話にはその理論がよく見られる。
それでどうして谷崎がそんなに有名なのかという質問にいろいろな答えがあるが、一つの答 えは人々は日本人でも外国人でも、現在でも60年前でも谷崎の話を読んで楽しんでいるということだ。谷崎はみんなが理解できる人間関係や人生のこころの問 題について書いたから、歴史的な背景が分からなくても谷崎の話が大体分かるのである。だから谷崎は国際的に有名になったし、一番すぐれた作家の一人だと言 える。
Pound and Profound
ザッカリ カー

能という劇の 種類はとても美しいが、能を他の外国語に翻訳するのはとても大変である。翻訳家を通して上手に訳したとしても、言葉のみの移植ではなく、能の心を移すこと はかなり難しい。しかし、能を心から尊敬して、その心髄が分かれば、能の心も移植することも出来るにちがいない。一人のアメリカの詩人はその能力を持った と思う。エズラパウンドである。
エズラパウン ドは1885年、アメリカのアイダホ州にが生まれた。パウンドの家族は1889年にフィラデルフィアに引っ越したので、パウンドはフィラデルフィアで育った。フィラデル フィアのペンシルヴァニア大学で勉強し、そこで詩をたくさん読み、よく書いていた。ヨーロッパに、何回も旅行して、イェーツや色々な有名な詩人と仲がよく なった。第一次世界大戦のときには、イェーツと一緒に住んで、日本語や日本の文学、特に能を一生懸命に勉強した。
のちに、パウ ンドはイタリア政府のために、反米と反ユダヤ主義の考えについてたくさん話したので、米軍に捕まった。その期イタリアにあるアメリカの刑務所で神経衰弱に なったため、アメリカに帰ってから、12年間精神病院で過ごした。自由になってから、反ユダヤ主義についての考えを後悔した。しかしながらパウンドが一番 知られているのはこのような政治的なバックグランドではなく、詩や本文批評や翻訳である。
パウンドは色 々な中国や日本の文学を翻訳したけれど、一般的に文学の世界で日本の能の翻訳が一番きれいだと思われている。熊野や錦木のようなしばいは元々美しく書かれ ているが、バウンドの解釈には元の美しさを英語に移植しながらも、独自のスタイルも含まれている。バウンドの翻訳は言葉のレベルだけではなく、能の心も英 語に移したと言えるだろう。
錦木の終わりの部分は大変美しく書かれているが、パウンドの翻訳も等しくきれいだと思う。このシーンに、シテとツレは、ワキに目を覚まさないで欲しい。も しワキが目を覚ましたら、全てが消えてしまうので、シテとツレはに嘆願している。
覚 めぬ前こそ 夢 人なるもの 覚 めなば錦木も 細 布も 夢 も破れて 松 風颯々たる 朝 の原の 野 中の塚と な りにける We ask you do not awake, We all will wither away. The wands and this clothe of a dream. Now you will come out of sleep, You tread the border and nothing Awaits you: no, all this will wither away. There is nothing here but this cave in the field’s midst. To-day’s wind moves in the pines; A wild place, unlit, and unfilled.
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錦木
これで錦木が 終わり、読者はシテの気持ちがよく分かる。ワキが目を覚ますと、シテやツレやこのシーンが夢のように消えてしまう。起きてから、ワキの前に何もなくて、気 がつけば野の中だ。オリジナルの詩も力があるが、パウンドの翻訳は、シテの気持ちや目が覚めてすべてが消えているという場面を力強く描いている。コーラス によって、シテとツレの考えが伝わっていて、この日本語と英語の二つのバージョンに、キャラクターと第三人称という視点が分かりやすいと思う。
ここにはシテ が少し嘆願しているという気持ちがあると思う。原作の場合には、コーラスで話しているみたいであるが、パウンドの翻訳は、シテの感情が入っている。それ で、ワキが目を覚ましたあとの最後の部分はすばらしいと思う。日本語のバージョンより、パウンドの方を感じることが出来る。そして、パウンドは翻訳家にな る前、元々詩人だったので、こういう詩的な書き方がとても上手で、元のテキストと同じように、すばらしく美しく書かれている。
「翻訳」とい う外山滋比古が書いたエッセーには、「さらに理解作用そのものが、他者を自分の精神の土壌の中へ定着させようとする移植の作業であるということもできる」 と書いてある。パウンドの文学は日本の文学を自分の精神や自分の国の土壌の中へ定着させて、新しい組織の中で芽を出した。
パウンドは日本語から英語に美しく翻訳したけれど、他にも三島由紀夫や谷崎潤一郎など昔の日 本語を近代日本語にも美しく翻訳した。外山滋比古はこういう異なる時代間の翻訳については書かなかったけれど、とても大事な考えだと思う。しかも、この時 代の翻訳家はパウンドの翻訳のスタイルから大切な影響を受けた。なぜパウンドはすばらしい翻訳家かというと、それは、パウンドがすばらしい詩人だからであ る。詩的な考えを通じて翻訳することで、能の心がほんとに分かったのだと思う。
日本昔話と 社会の役割
ジェイミー スコット
「浦島太 郎」、「花咲爺」、「鶴の恩返し」、「桃太郎」、「舌切り雀」。日本にこれらの話を聞いたことがない子供は極めて少ないだろう。これらは日本の民間伝承の 中の一部に過ぎない。日本の様々な村はどこでも、どんなに小さくても、その村に伝わる民話がある。日本全国の昔話を集めると100,000篇にも上る。昔 と現代日本はこの100,000篇以上の昔話によってつながっていると言える。
日本の昔話 は元々口だけで伝えられたもので、20世紀になると柳田国男と言う人の活動を最初にして日本は本腰を入れて昔話を本に記録し始めた。今の日本ではその民間 伝承はマンガとアニメにも表されている。私自身の経験を思い出すと「桃太郎」や「一寸法師」や「かぐや姫」などの話は全部アニメとして紹介されたものだ。 なぜ20世 紀の後半にその日本の伝統的なものがアニメなどの現代的な方法で民間に再紹介されたのだろうか?
実は世界中 の民話を考えてみると19世紀の後半の頃に西洋の学者が研究のために色々な国の民間伝承を集めたり、記録したりし始めたが、日本の場合は明治時代まで民間 伝承は余り学問的に研究されなかった。20世紀以降その活動を始めた学者は西洋の学者ではなく、日本国籍の学者であった。
明治時代ま で外国との接触がわずかしかなかった島国の日本は他の国に比べると独特な民間伝承を持っているから、この国の宝物を保存するために柳田国男が最初の民間伝 承の会を設置した。
柳田が最初 の民話選集を出版するまで四十年間ぐらいかかった。彼の研究の仕方は日本の様々な小さい村へ次々に行って皆の昔話を一つずつ記録するという実地調査で、日 本 の民間伝承 はどのぐらい発達してきたかが自分の目の前に見えた。結局その研究を続けるために1948年に柳田の日本民族学研究所が設置された。こうして、いわゆる昔 話を通して日本民衆の伝統とか価値観などの理解の仕方の一つが出てきた。
前に述べた ように現代日本で色々な昔話が子供のためにアニメなどで再紹介された。どの国の文化でも口で伝えた昔話は、ある社会の伝統や価値感を教える方法として役立 つものである。私が興味を持っているのは,日本の民間伝承が日本の子供にどんな大切さを持っているかということである。
日本の昔話 はもともとはただ単に子供も成人も楽しませるための話であった。柳田が気づいたように一般の村には昔話を語ると言う役割を持っている年長の人が一人いて、 祭りの季節に村の人々はその人から昔話を聞きに行く。不思議なことがよく入っている日本昔話はどんな社会も楽しませる能力があるに違いないが、それととも に教訓的な物語でもある。何度も現われたテーマを考えれば本当に日本全国の色々な価値観が明確になる。こういう点で日本の昔話は世界中の昔話と同様の点が ある。
どの国の昔 話からでも悪い行いに対する処罰という教訓が取り出せる。例えば「舌切り雀」のお祖母さんや「猿かに合戦」の猿や「花咲か爺さん」の隣人も残酷な行いのた めひどい処罰に遭った。その悪さの根源はしばしば欲である。それに対して親切さなどの美点に対してほうびを与えるというテーマもよく入っている。「笠地 蔵」のお祖父さんや「舌切り雀」のお祖父さんなどの主人公がその教訓を例証する。

悪に対する 処罰、美点に対するほうびなどの全国的なテーマはもちろん日本に特殊なテーマではない。けれど、日本の昔話にはどんな特色があるかともう少し見ると、その 特色が日本の文化にどんなつながりがあるかが明確になる。例えば日本の物語には親に対する敬愛を表す子がしばしば見られる。「鶴の恩返し」、「桃太郎」、 「一寸法師」の行動を見ると敬愛の大切さが明確になる。それは日本の文化に深く根づいている孔子儒教の影響であると言えるだろう。
日本の昔話 と言えばひどい仕打ちがよく起こる。例えば「かちかち山」などで不正に対して仕返しされることである。その仕打ちは普通は誰かを死なせるほどのひどい仕打 ちである。そういうことは日本の文化に何かつながりがあるだろうかと考えた時、最初は余りないと思ったが、更に考えてみると自分が受けた不正に対して仕返 しをすると言う昔の日本の武士の考え方につながりがあると思えてきた。現代の日本を考えるとその思想はどういう風に現れているのだろうか?
前のような テーマの頻度から考えて日本昔話は価値感にとって重要性を持っているに違いない。
外国の民間 伝承が日本に及ぶ条件を見ることも面白い。ヨーロッパの「ゴールディロックスと三匹の熊さん」の場合を説明すると、その有名な昔話は日本に持ってくると話 の結びが書き直された。原作では発見されて熊さんのうちから急いで逃げてしまうゴルディロックスが、日本の訳書では三人の熊さんに自分の間違いを告白し て、誤って、また熊さんに許されるという結びになっている。日本の訳書ではゴールディロックスの間違いよりも誤ることと許されることが優先されたのは文化の違いを示す。
昔話の内容 について西洋の物語と日本の昔話の相違を見ると本当に面白い。その一つは恋愛のことである。西洋の物語の結びを考えると恋愛で「いつまでも幸せに暮らしま した」と言うふうに終わる話が何編もある。それに対して日本の昔話を見ると恋愛を含む話は余りない。美しい若い女が出現する時に普通はその女は不思議な人 で魔法で他の動物に変身する。貴公子から主人を一人選べるかぐや姫も結婚するという結びにしないで月に去ってしまった。愛情は大切じゃないと言うわけでは ないが、ただそう言う感情は私的なことで物語に表す必要がないからかもしれない。
昔話のため の柳田の研究努力、子供に色々な方法で教えられた頻度、今まで集められた話の多さ、これら全部が日本の昔話の大切さを指している。日本の昔話はギリシャの イソップのような教訓的な話であるだけではなく、日本の文化的な思想の根元にまで及ぶ。この先いつまでも日本の昔話は日本国民にとってかけがえのないもの であるに違いない。
相撲はなぜ 人気がないのか?
ジョナサ ン・トワンブリー

アメリカでは相撲に対して二つの見方が普通である。その一つは、相撲というのは神秘的な宗教 と関係がある伝統的な儀式だということである。もう一つは、相撲が二人の非常に太った、おむつのような物を履いている男がするプロレスみたいなスペクタク ルだという事だ。しかし、そのどちらの見方も間違っているのだ。相撲はスポーツ以外の何物でもない。
この印象を 強く受けたのは私が日本の英文雑誌の22歳のレポーターである時だった。私は編集長が取り決めた取材で東関部屋を訪ね、力士に彼らの稽古を見させてもらっ た。テレビでは相撲を見たことが何回もあったが、その目の前の稽古は信じられないぐらいの迫力があった。私から二メートルも離れていない練習用の土俵でし てくれた稽古の音が特に印象的だった。アメフトの選手のつかみ合いのように、力士たちが立会いでぶつかり合って、筋肉が筋肉に衝突したらパンという音がし てびっくりした。しかも、アメフトの選手と違って力士たちはパッドがなかった。力士の強さが明らかになり、その時まで果たして相撲がスポーツだろうかとい う疑問があったにしても、東関部屋の稽古を見たことで、それは解決されたのだ。
私は 1991年から1994年まで日本に住んだ。いわゆる相撲ブームがその時に同時に起こっていた。著名な千代の富士のすばらしい横綱としての活躍が彼の引退 で終わったばかりであり、ハワイ人の小錦か曙のどちらが初の外国人横綱になるかということと、お父さんが大関だった人気力士の貴花田・若花田兄弟が速いス ピードで番付を昇りつつあって、どちらが先に横綱になるかということも話題になっていて、相撲のファンが興奮している時であった。相撲の最盛期だったと 言っても言い過ぎではないだろう。毎年、年六回の相撲場所の切符がいつも売れ切れで私は相撲をライブで見ることができなかった。
曙
小錦
けれど、二 年間に渡って、デービッド・ベンジャミンというアメリカ人の友だちの家で、彼と吉田順子という彼の奥さんと三人で、しゃぶしゃぶを食べながら毎場所の千秋 楽の幕内の取り組みをテレビで見た。その夫婦は、ベンジャミンが英語で書いて吉田がそれを日本語に訳すという形で、週刊文春に相撲についてのコラムを毎場 所書いていたので、言うまでもなく相撲に詳しかった。彼らのおかげで私は相撲についてたくさんのことを教わったのだ。三人で相撲を見たことは私の日本での 一番いい思い出の一つである。
それから、 十年経った現在は、相撲をめったに見ることができない。しかし、たまにテレビで相撲を見ることができたら、いつも驚く。画面に映るのはまさかと思うほどの たくさんの空席である。両国国技館がとてもさびしい雰囲気がする。いわゆる相撲ブームが確かに終わったことが明らかである。
どうして相 撲の人気が落ちたのだろうか。私の考えでは、日本人の横綱がいないということだ。横綱旭富士が引退した1992年以降は、日本人は二人しか横綱になってい ない。若乃花・貴乃花で前述の若・貴兄弟である。更に、2003年に貴乃花が引退して以来、一人の日本人力士も横綱になっていないし、すぐ横綱になれそう な日本人力士もいない。しかも、同じ期間に、三人の外国人力士が横綱になった上に、今の唯一の横綱はモンゴル人の朝青龍である。
日本人がな ぜ日本人横綱ほど、外国人横綱の強い相撲を楽しまないかという問題はさておき、なぜ日本人の横綱がいなくなったかということについて推測したい。まずは、 相撲取りの生活がとても大変なことだ。大学で相撲をした力士以外は、力士は15歳の時に相撲部屋に入るのが普通である。相撲部屋は大体厳しく階層的であ り、すべての行動・責任・自由が力士の地位によるのだ。たとえば、若い力士は自分の寝室がなく、ほかの力士と寝室を共有し、また相撲部屋の家事などをしな ければならなく、先輩の使用人としても働かなければならない。その上、布団と食事以外には、若い力士は給料をぜんぜん貰わない。相撲の稽古も時代遅れだ し、体につらい。私が日本に住んでいた1990年代には、「3Kの仕事」という表現がよく使われていた。3Kの仕 事というのは、発展した国である日本出身の日本人がしなくなってきて、アジアからの外国人にしてもらってきた、汚い・きつい・危険な仕事を表す表現であっ た。昔は、今のアメリカでのボクシングのように、相撲はほかに経済的に進む方法がない若い田舎ものや貧乏な男性にとってはいいチャンスをもたらす3Kの仕 事であったといっていいだろう。しかし、普通の日本人が3Kの仕事を避けてきたように、今の日本人の一流のスポーツマンが相撲という3Kの仕事を避けるよ うになってきたのだ。
相撲界が魅 力を失ったのに反して、相撲のライバル・スポーツのサッカーや野球の世界は相撲界と比べて、楽だし、プロになった場合には相撲より給料がずっといい。相撲 界で成功できるような一流のスポーツマンだったら、ほかのプロスポーツでも成功できる可能性が高いので、この頃のスポーツが得意な若い男性は相撲ではな く、サッカーや野球に目が向いているらしい。この現象をきっかけとして、日本人力士の質は昔と比べて、低くなってきた。ベンジャミンによると、それを隠す ために、相撲協会は力士を太らせる方針を密かに行っている。昔の力士のビデオと写真を見れば、今の力士の方がかなり太っていることが分かるという。
その反面、 モンゴルや旧ソ連の国々のような開発途上国にいるスポーツが強い若い男性にとっては、相撲はまだ先進国日本に行って経済的に進めるチャンスである。特にブ ク(Bukh)という相撲によく似ているスポーツがあるモンゴル国の若いスポーツマンにとって、お金持ちになれる 日本の相撲界は非常に魅力的である。この事実が、今の50人あまりの外国人力士の中で30人がモンゴル出身だということを説明しているだろう。
日本人の トップのスポーツマンが相撲の方を向いておらず、モンゴル人の一番強い人が相撲界にドンドン入ってきている現状では、相撲の一番強い力士が外国人だという のは仕方がない。日本人の横綱が誕生するには日本相撲協会が発展した国の若い男性にもっと魅力的な業界を作るしかないのである。そのためにはどうしたらい いだろうか。まず、15歳の男性の代わりに、大学の相撲部出身の力士しか雇わないことだ。それから十両以下の力士に、野球のマイナーリーグの選手のよう に、自分の生活を維持できる給料を与え、自分のアパートを借りさせるといい。そして、十両以下の力士をプロフェッショナルとして扱って、後輩が先輩の使用 人だという制度を辞めることだ。最後に効果的ではない伝統的な稽古からもっと近代的なトレーニングに移すことだ。そうすれば、二つのいい結果がもたらされ るだろう。一つは、相撲取りの生活が今ほどつらくなくなったら、現代の日本人にもっと魅力的になって、日本の一流のスポーツマンの中から相撲界に入りたい 選手たちが誕生するだろうということだ。そうなれば、もう一つの結果としては、太らせなくてよくなり、相撲の最盛期の舞の海や寺尾や旭道山のようなたくま しい、女性に人気のある力士も登場するだろう。こうして、横綱になれそうな上手な日本人力士と、女性に人気のある格好いい力士が土俵に上がれば、相撲の人 気が復活するのではないだろうか。
靖国神社の 議論
杉本祐里佳
靖国神社と は千百六十九年(明治二年)明治天皇により明治の新時代に生まれ変わる時に起こった内戦で失われた人達を祭るために創建された。その後靖国神社は日本が加 わった、又は関係する戦争で命を失った軍人たち(2,466,53人)を祭る神社となった。
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戦争が終 わった後彼は自殺しようとしたが、失敗しその後、裁判にかけられ、死刑にされた。彼のおかげで数多くの中国人が死んだ。今靖国神社が問題視されるのは、は たしてこのような戦犯が葬られている場所に日本の総理大臣が参拝に行くべきかという点に有る。隣国の中国や韓国の社会、特に政治家達は小泉総理大臣の靖国 神社参拝に強く反対し中止を呼びかけている。確かに靖国神社は、日本軍国主義を象徴するような神社に見えるかもしれない。靖国神社内には日本軍の歴史を高 々と説明し、日本軍の使った武器(神風飛行隊が使った飛行機や人間魚雷等)を展示する博物館(遊就館)を敷地内をもうけている。ただしそこには、日本軍が 中国や韓国の人々に与えた被害と痛みについては一切説明されていない。
今日の日本 はもう孤立した存在ではなく、世界各国、特にアジア諸国との協調が重要になっているのになぜ小泉総理は今まで靖国参拝を強行してきたのか。
日本は現在 国連安保理常任理事国入りを目指して動いている。たしかに戦後60年日本は平 和を維持し世界2位の経済大 国になり、国連の予算の大半をせおう大国なので安保理入りは当然のように見えるが、もしも5カ国の常任 理事国(アメリカ、フランス、イギリス、ロシア、中国)の一国が反対意思を表明すればオら通らない。
中国は小泉 総理の靖国参拝に対して極めて批判的である。戦争が終わって半世紀にもなるのに何故このようなことを強行するのか?中国の日本の安保理入りを防ぎたいとい う姿勢は明らかである。中国は戦後60年経った今 でも旧日本軍国主義に対して根強く警戒心を持ちつづけている。これはこの3週間中国各 地で起きた反日デモではっきりと現されている。彼らたちには “愛国心イコール反日心”なのである。
逆に、小泉 総理はこの中国の姿勢を容易に受け入れるわけにはいかない。もしそのような姿勢を見せれば日本の“愛国主義者”、日本の右派が反発し、自民党は次の選挙で 多数の支持を失い、小泉総理の政治生命はおわるだろう。
今週末、イ ンドネシアで開かれたアジアアフリカ首脳会議で小泉総理は靖国参拝を今後も強行するのかと記者団から追及されたがそれに対して彼は “適切な判断を下す” と答えた。これははっきりとした“イエス”か“ノー”かは分からないが、もし日本が国連安保理に入り、同時にアジアの隣国関係改善をのぞむなら答えは一つ しかない。
今小泉総理 と日本政府は重大な選択を迫られている。勇気を必要とする選択だと思う。A 級戦犯の墓 を別の場所に移すことも一つの案になるだろう。過去の清算をはっきりとさせる前向きな、アジアの将来を重視した判断を期待したい。なお、4月25日の朝日新 聞のアンケートによると調査に応じた日本の国民の48%は小泉総 理の靖国参拝に反対している。
参考文献:
http://www.yasukuni.or.jp/english
http://www.geocities.com/gatoesmuchogor/
日本のいじ め問題
チョウ イー

日本で育った人 なら、誰もが一度や二度、いじめに遭った事があると言うに違いない。今や、いじめは深刻な社会問題となりつつある。日本のいじめは、どんどん低年齢化し、 若い世代の人たちに精神的な影響を与えている。このいじめの実態は、日本の集団主義の社会構成を反映している。こうした若い頃に得た心の傷は、大人になっ ても消え去らず、一生のトラウマになることが多い。今、この問題に立ち向かわないと、ますます深刻な問題になるだろう。いじめは、学校、家族、そして地域 が力を合わせて行動し、克服するものだ。
日本の組織的いじめは今始まった事ではない。日本では、幼い頃から、集団活動の重要性が強調される。子供達は小学校の時から、まず クラスに分けられ、そして班に分けられ、その班といつも行動をともにする。給食も掃除もなにからなにまで一緒にやりとげる。その反面、日本の子供たちは、 一人で行動する機会がとても少ないのだ。班の栄誉は、その班の一人一人の栄誉に
つながり、団体の恥は、個人の恥となる。その点から見ると、日本の教育は、個人の発展よ りも、集団の発展を重視している。これだけ、一緒に時間を過ごすと、「仲間」という観念が生まれ、年を重ねるにつれ、その重要性も増していく。集団社会の 中、その社会構成についていけず、仲間外れになる人が現れてくる。このような、社会的基準から外れた人たちは、いじめのターゲットになりやすい。この、日 本社会の構成が、組織的いじめにつながるのだ。
他の国に比べ、日本のいじめは構造がとても複雑で、暴力だけではなく、精神的な方面からも人を追い詰めるのが特徴だ。アメリカでも、似たような問題があるが、子供同士の喧嘩や暴力がほとんどで、いじめによる自殺は日本と比べてかなり少ない。どちらかというと、アメリカのいじめ には、深刻さがなく、その実態は「からかう」と言ったほうがあっているかもしれない。そして大抵、アメリカのいじめは、卒業をすれば、やがて忘れる程度なのがほとんどだ。それに反し、日本の場合、幼い頃に得たいじめの傷は、血を流し続けていき、いじめの被害者が加害者に転じるなどして、無限のサイクルを保ち続けていく。こ の問題は深刻で、登校拒否、校内暴力などにつながる。この違いは、社会観念の違いの象徴だ。例えば、日本とアメリカのホラー映画を見てみよう。アメリカの 映画は、血まみれの死体、内臓、果てしない暴力などと、いかにも恐怖をもたらすものばかりだ。その結果、見ている間はとても不愉快なのだが、終わってみる と、それほど恐怖を覚えることはない。日本のホラー映画は違う。画面には、血も、死体も、幽霊も、それほど出てこない。しかし、見終わってもその映画の恐 怖から逃れられない。この例は、いじめの実態を反映している。アメリカのいじめは、一見、暴力的で怖いのだが、日本のいじめは、社会の常識、構成をよく把 握しており、よく撮れた映画のように、長く、その恐怖が心の中に残るのだ。
日本のいじめは、精神的ダメージを主目的にして行われている。そして、団体と言う枠にも とずき、いじめの対象を傷つけていくことに、喜びを見つけるのだ。小、中学生の頃のいじめは特にひどく、クラス、いや、学年全体でいじめを実行するのだ。 クラス全体でのシカト、暴力、そして物隠しは、日常茶飯事みたいなものだ。リーダータイプの人が、集団を動かし、一人か二人のターゲットの人の存在や自尊 心をズタズタにするのだ。この深刻な問題の中、教師達は、見て見ぬふりをすることが多い。家庭でも、親に心配をかけまいと何も言わないでいる。いじめに あったことのある人たちは、ターゲットが自分に回ってこないようにといつしか、加害者の立場に回っていくケースもよくある。いじめのつらさがわかっている からこそ、リーダーに逆らえないのだ。行き場を失い、追い詰められたターゲットが、自ら命を絶とうとしてしまう場合さえある。このように、いじめは、循環 し、悪化していくのだ。
集団主義の日本はその団体の構成を枠にし、集団的いじめをしている。数が増加、そして内 容が凶悪化しているいじめは、その集団構成への何らかの抗議であり、結果でもある。人々が、この構成に矛盾を感じているからこそ、いじめは生まれたのだ。 わざと枠からはずし、いじめの対象にすることにより、本来の「自分」を抑え、社会で生きていく。いじめの加害者は、愛に飢え、心の叫びを聞いてほしいのか も知れない。だからこそ、いじめ問題を解決するには、まず、日本社会の構成をよく見直す必要があるかもしれない。
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「アフター ダーク」における村上の人称代名詞の変化
トレント ドレイク

村上春樹は 最初は日本の純文学者によく迎え入れられていなかったのに、国際的にも甚だ有名な日本の作家の一人になった。フィクションの作家としての円熟に応じて、彼 の作品は徐々に日本の文壇に認められてきて、結局「ねじまき鳥クロニクル」という本を書き上げた後で、前に村上のことを厳しく批評した大江健三郎にさえ、 村上は賞賛された。その時期にアメリカ滞在を終えて、日本に帰国と同時にノンフィクションに集中するという約束をした。しかし、短期間ノンフィクションを 書いた後で、すぐフィクションを再び書き始めた。フィクションに戻ってからもっとも最近発表したのは昨年の九月の「アフターダーク」という重要な作品だ。
「アフター ダーク」という本は密接に関連している短い話が集められている。前のフィクションと違って、この作品はノンフィクションの作家としての経験の影響を受けて 書かれているものだ。ここで、「アフターダーク」が前のフィクションと比べると、いかに違うかを簡潔に検討したいと思う。特に、村上の使う人称代名詞の変 化を通して、この本がいかに読者にも影響を及ぼすのか、即ちどんな役割を読者に与えるのかということについて考察する。更にそれがいかなる結果を生み出す か。従って、この論文の目的は「アフターダーク」の話を解説して、村上のメッセージを探し出すことではなくて、この本の人称代名詞がどう違って、それが読 者にどのように影響するか調べることだ。
「アフター ダーク」の初めの章は空から人間の活動を観察することで始まる。上空から見ると「都市はひとつの巨大な生き物に見える」、人類は「ひとつの集合体のように 見える」。時が真夜中に近づくにつれて、都市の活動はだんだん低下してくるが、「生命を維持するための基礎代謝はおとろえることなく続いている」。そし て、「私たちの視線は」都市のいきいきとした地域まで下降して、それを念入りに見回している。ついに、満席のデニーズというファミリーレストランに入っ て、自然に「一人の女の子に目をとめる」。その女の子が詳細に描かれた後で、楽器ケースを持っている若い男が中に入ってくる。彼は女のテーブルのそばを通 りかかった時、突然本に熱中している女と話し始める。たまたま、その二人は数年前にプールパーティーで出会ったことがある。女はその男がよく思い出せない が、男は女の許可を求めないで、いきなり女の向かいに座る。それから、第一章はその二人の話を中心にして、進んでいく。二人は食べ物や過去の出会いや女の お姉さんの美しさや音楽などについて話し合う。女は男が去るまで、一貫して、大部分黙って身振りで伝えているが、その一方で男はよくしゃべっている。最後 には、男が立ち去って、女は「呼吸を整え、頬杖をつき、また読書に戻る」。
初めの20年間のフィ クションでは村上は大方一人称で書いて、よく「僕」という人称代名詞を用いた。日本語の「僕」は「私」よりも、英語の「I」という中 立の呼び名にあたり、日本の社会的階級の外にあることばだと村上は説明した。従って、「僕」を使い続けた。しかし、「アフターダーク」で人称代名詞が変わ る。よく使われた「僕」の代わりに村上は「私たち」という言葉で話を始める。一人称がまだかかわっているが、親しみのある「僕」が正式な「私」に取り替え られている。読者は「僕」の友としてもう迎えられていないが、それにもかかわらず、話の主な役割の一部として含まれてい る。村上が「私たちは」という時、それは共通の経験を指し示していて、話が進むに伴って、一緒に何かを発見する約束を与える。「アフターダーク」は村上の ことばかりではなくみんな、私たちの物語だ。「アンダーグラウンド」と「約束された場所で:Underground 2」というノ ンフィクションでも、読者が関係者として扱われている。村上はサリン事件をある特定の地域の事件としてではなくて、すべての日本人に降りかかった惨事だと 断言する。同時に私たちによって作られている社会が、その事件の一因になったことも強調する。かくして、村上は「アフターダーク」の中に読者を引き込む。 私たちは一緒に動いて、探検すると共にこの話を作っている人々になる。私たちはこの話に出てくる人物(あるいは広い観点から見れば、人類の集合体)の潜在 意識として存在している。
私たちは離 れている所から都市を見下ろして、デニーズまで降下した後、人称代名詞をほとんど気付かないうちに三人称に転じられている。それから、話は女と男の出会い に集中してくる。けれど、私たちの視線はその二人を見つけて、彼らの会話に耳を傾け、それによって二人の存在を立証しつつあるので、元の「私たち」の要素 は消えない。村上は会話に意味を持たせる者としてわれわれ読者を話に迎えて、われわれの存在によってその二人の人物を生み出すことができるようになってく る。それで、私たちは観察、創作、証明の過程を続ける。しかし、それが積極的な過程ばかりではなく、消極的な過程もある。三人称が使用されると、私たちは 離れている立場から、話の中に直接入れないので二人を見ないわけにはいかない。この立場の力は、私たちが客観的に観察できることだ。村上は私たちをこの話 の一部にして、私たちは潜在意識の成分としての存在で話の内容を解釈することができる。前の「ねじまき鳥クロニクル」と「スプートニクの恋人」というフィ クションでも村上は三人称で少し書いているが、読者のためにしているわけではない。それどころか、「僕」という主人公の理解を助けるために三人称に移す。 例えば「ねじまき鳥クロニクル」で主人公が日本の暴力の歴史を理解するのを助けるために三人称の物語の形で直面する。「アフターダーク」では「ねじまき鳥 クロニクル」の「僕」のように私たちは話に参加しているから、村上のメッセージに直面しないわけにはいかない。
「アフター ダーク」の初めには「空を高く飛ぶ夜の鳥の目を通して。。。」ということが書いてある。村上の前のフィクションの中で鳥は意識と潜在意識の間を自由に動い ている動物として描かれている。「アフターダーク」で意識と潜在意識の間を動いているのは読者だ。潜在意識である限り、結果的に三人称で事件を観察して、 現実を確認できるのである。かくして、村上はフィクションを一種の事実にすることによって、ノンフィクションの世界の私たちにメッセージを送っているので ある。
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浜崎あゆみの魅力
古井智子

2000年代日本の音楽界を見事に代表した歌手一人をあげるとしたら浜崎あゆみだろう。彼女の名前、歌、存在を知らぬ日本人を見つける事は難しいのではな いだろうか。まるで無名だった頃が嘘のようだ。毎年行われる日本レコード大賞を三年連続して受賞した浜崎あゆみは、音楽番組・芸能番組界では引っ張りダコ だ。さらに彼女の歌は必ずトップ10にランクインし、アジア大陸の多くの国でも大人気でもある。と言っても彼女の歌唱力が特に優れているわけでは全くな い。はっきり言えば、彼女の歌唱力は米国テレビ番組アメリカンアイドルの第一オーディションで落ちると思う。宇多田ヒカルや小柳ゆきのほうが断然上手いと 誰もが文句なしに言うだろう。それにかかわらず、浜崎あゆみはデビューからわずか2年の間でトップへと登り、第一線から当分消える様子はない。年間、他の 歌手より頻繁にシングルを出す彼女だが、間違いなく毎回高いセールス記録を勝ち取ってきた。歌手としての魅力より、カリスマ的な魅力の方が大きいのではな いだろうか。歌唱力は別として、同世代の一人の女性のロールモデルのような存在が最も大切なのではないだろうか。
浜崎あゆみの最大な特徴の一つ述べるとしたら、彼女自身が書く歌詞だろう。平成10年四月に発売されたデビューシングル“poker face” を始めとして、彼女はそれ以来全てのアルバム・シングルの歌詞を手掛けてきた。浜崎あゆ みの歌詞はここ数年前まで、決して英語を含まなかった。米国の9・11テロ事件を頭に置いて作った歌 “a song is born” が始めてのケースだった。理由は、彼女によると、英語では自分の考え・感情・伝えたい メーッセージが上手く表現できないからそうだ。自分が歌う曲全てに対してはっきりとしたイメージを思い浮かべているので、彼女は曖昧な仕上がりでは満足し ないのだ。こういった彼女の発言から、浜崎あゆみが自分の歌詞にどの位の思いとこだわりを込めているのか分かる。ただ人々に好かれるような有りふれたもの は避けて、オリジナルな自分の特徴を守り続けている。最近の若い女性歌手達の歌は英語を何処かしらに使っている。こういった流行には縛られず、浜崎は自分 のやり方を選んでいる。母国語ではない言葉で自分の考えを素直に表現することはとても難しい。どうしても伝えたいという気持ちが歌に込められていると思え る。浜崎はもともと作詞の経験はゼロだった。だが彼女のプロデューサーによると、彼女がアマチュアであったからこそ、ここまで売れたのだそうだ。浜崎あゆ みがプロのような歌詞を作っていたら、もう過去の話になっていたかもしれない。初めて彼女の詩を読んだ時の彼の反応は、「これは18歳の子が書くものでは ない」。こういう詩を書くにはそれなりの経験を積んできたんだろうと彼は思った。そして彼女に歌詞をさせるように決心した。彼女と似たような経験を持って いる若者たちは必ず浜崎あゆみの歌詞に惹かれるだろう。心にしみる歌、またその歌が同世代の女性の経験から生まれたということで多くのファンを集めてきた と思える。浜崎あゆみの歌は一見単純で当たり前のようなことを描いてある。だが、こういった当たり前で誰もが考えるような思想を紙にすることは簡単ではな い。また、単純だからこそ多くの人たちからさまざまな解釈を引き出す力があるのかもしれない。
彼女の英語を使った初アルバム “A Song for XX” 平成11年1月1日発売、は見事に120万枚とミリオンを超えた。さらにこのアルバムは 女性歌手としては18年振りにオリコンチャート3週間連続一位という記録を達成した。彼女のアルバムの中でこの作品が最もプライベートなものだと思う。収 録曲のほとんどの歌詞は心を刺すように刺激的で、ある意味では非常に暗いイメージのものが多い。だが、だからこそ浜崎あゆみという人物に惹かれ、彼女の経 験や思いに共通感を持てるのではないだろうか。タイトル名となっている“A Song for XX” という歌をはじめて聴いた時、グッとくるのは確かだ。
「居場所がな かった 見つからなかった
未来には期 待出来るのか分からずに
人を信じる 事って いつか裏切られ
はねつけら れる事と同じと思っていたよ
あの頃そん な力どこにもなかった
きっと色ん なこと知り過ぎてた
一人きりで 生まれて 一人きりで生きて行く
きっとそん な毎日が当たり前と思ってた」
( “A Song for XX” から引用 作詞:浜崎 あゆみ)

まだ浜崎あゆみの存在があまり知られていない頃、当時16歳の私はこの歌に非常に引かれた。人並みの辛さや苦痛を経験していたとき、彼女の歌詞に少し救わ れた気がしたのだ。自分の存在は何の為にあって、何の為にさまざまな人生のハードルを乗り越えていかなくてはいけないのだろうとよく考えていた。彼女の歌 詞に描かれているように、自分という人間の居場所が分からずに生きていて、誰を本当の友達と呼べるかさえも分からなかった。自分の将来にも自信がなく、こ れから生きていく強さもあまりなかった。だが、この歌詞に書かれていたことに共感した私は、自分の経験に新たな感覚を持てた。こういった気持ちを持つ人が 自分以外にいるっていうことを知っただけで、満足したのかもしれない。友情や信頼や社会に対して納得しないことが多かった時、人生をもっと受け止められる ようになった気がする。さらに、彼女がこうやって弱さを言葉にすることに反対に彼女の強さを感じたのだ。私はこの強さに憧れてもいたのだろう。
浜崎あゆみのイメージは彼女自身が作ったもので、事務所が人工的に前もって計画たて作りあげたものではない。この歌詞は浜崎あゆみの本音、純粋な思いだけ を描いている。本当の自分の感情を他人、日本人全てに見せることは難しいことだ。世間からの厳しい評価が待っていると知っているにもかかわらず、彼女の詩 はあまりにも大胆だ。人生に対して誰もが一度は思うような事をそのまま書いてある。また、回りにはあまり見せたくないような面も彼女は堂々と見せている。 テレビで観る浜崎あゆみのあどけない姿と歌詞が捕らえている大人な浜崎あゆみとは矛盾しているみたいだが、このギャップも魅力の一つかもしれない。
彼女のセカンドアルバム“Love pears” の中にはこういった文がある:
「例えば何か が起きたら守るべきものがある今、そんな自分は明らかにあの頃よりも強いことに気が付いた。」(浜崎あゆみ)「あの頃」とは初アルバムの時期を指してい る。歌手としの役を始めた彼女は、守るべきものを見つけたのかもしれない。初アルバムの歌詞ブックに書いてある言葉「全ての人間には触れられない。できる のは、通じたことを信じること。」(浜崎あゆみ)にそういった気持ちは現れてるいる。彼女の歌を聴いてくれる人々にメッセージを届ける力だったのかもしれ ない。彼女が新しいアルバムを出す過程で、彼女の成長が歌の中に現れている。こういった形で彼女のファン達は彼女の歌について行くのだろう。
浜崎あゆみの歌詞は精神的な弱さと強さを両方描いている。女性としていろいろな経験を乗り越えて、新たな自分を迎える力が伝わってくる気がする。過去に人 気があった女性アイドルたちの単純に可愛いイメージとは違う。ただ聴いていて楽しい、あっという間に飽きるような歌でもない。女性の感覚から見た、女性た ちの意見をメッセージとして伝えている。彼女の最新曲 “My name is woman” では、
「時代は ほ ら こんなにも移り変わり
それなのに 涙が武器だなんて ねえ いつの話
簡単には 泣かないし 甘えてばかりでもない
私たち 着 飾っただけの人形なんかじゃないから」
( “My name is woman” から引用 作詞:浜崎 あゆみ)
こういった歌詞は伝統的な女性の立場とは離れた新たな感覚を描いている。静かでおとなしい人形の様な生き物ではなく、自立した行動的な者であることを指し ている気がする。彼女の他の歌詞を分析しても分かるが、決して女性をおとなしいイメージに映していない。弱さを表すことはあるが、それは全ての人間に当て はまる弱さとして表現している。浜崎あゆみは女性たちから見て、可愛さ、カッコよさ、さらに強さを持っている一人の女性歌手だ。今までは存在しなかったような、新しいロールモデルとして活躍している彼女の魅力はこれからも輝き続けるだろう。
日本における1960年代の思想史
ブレット ブッジーニ
1960代には、このアメリカだけではなく、世界中で様々な文化と社会変化が起こった。 日本にとっての‘60年代とは、戦後からの復興を果たし、高い経済成長率を実現する一方で、民主主義と国の安全保障に対し重大な難局に直面するとともに、 ベトナム戦争も始まるなど、社会の中に、色々な不安が表面化した時代だった。
日本人が一般 的に社会に対して不安を感じる中、戦争中あるいは戦後に生まれ育った、二十代の若者や多くの若者たちは、自分が社会を変えてやるという、強い信念と希望を 持っていた。 これらの若者たちは世界は急速に変わりつつあるということを感じていた。この世代は戦争に関していろいろな疑問があった:
「どんな世界 に住みたいか」
「人間はどう 生きればいいか」
「どんな社会 を作りたいか」
「日本はどん な国になるべきか」
「戦争を繰り 返さないためには何をすればいいか」
これらの考え が、まるで嵐のように頭の中を駆け巡った。
これまで多く の歴史家は、日本の60年代についてあまり研究してこなかったが、この時代がこれまでの古い日本の社会の道徳観や文化に大きな変化が起き、今日の日本社会 の基礎ができったあがった大切な時代だと考えられる。
60年代の平凡パンチと
マスメデイアの機能
「平凡パン チ」は、ファッション、アート、そして国際政治に関心を持つ男性向けの週刊雑誌だった。 「各芸術のジャンルを超えた交流と国際間の交流を実現する」考え で、1964年4月28日にはじめて発行された。民主主義の歴史学者と近代文学者がとりあげた「方針として掲げた旗印は人間的主体性の復活」というテーマ は表面的にファッションと車と女性だったが、知識人の立場より、プロレタリアのトピックだった。この意識をもって平凡パンチが出版された。
六十年代には、先の戦争が起こった理由は、ブルジョアが政府を支配したからだ、という考えがあった。このブルジョア支配による戦争観に対して、平和を守る ために日本の文化を変えることが必要だと考えられた。 六十年代には、このような文化戦争が起こった。この文化戦争には 「平凡パンチ」だけではなく他のメディアも参加した。 若者たちの進歩 的な文化運動は日本の文化にいろいろな影響をが与えた。 若者たちはアメリカと日本では “make love, not war” 「戦争よりも、愛を」という モットーがあった。戦争よりも、平和的な活動にエネルギーを発揮するほうがいいという考えがあったにもかかわらず、実際はベトナム戦争と東西の冷戦の影響 で、日米安保理に基づく再軍備の拡大が検討された。
大内兵衛
この再軍備は経済にはどんな結果を与えるかという議論を呼んでいた。進歩的な知識人の中で,大内兵衛「おおうちひょうえ」がリーダとして述べたのは、軍備は経済にとって良くない結 果をもたらす、というものだった。この意見は多くの日本人の間に広がって、日本政府は、国内世論を反映して、自衛隊の予算を国家予算の1パーセント以内に 限定した。急進派の批評にかかわらず、この制限のおかげで、日本国民のエネルギーと資金は、経済的な発展や、美術と文化の分野に集中させることができた。1964年の東京オリンピックで は、日本はその世界的なイメージを変えることに成功した。1940年の東京オリンピックは戦争のせいで、中止となったが、‘64年のオリンピックは、日本 にとって非常に大事な転換期となった。国の発展の目標は、軍事力から豊かな文化の国」へと変わった。日本にとって、世界の国々へ日本の文化を伝えること、 そして外国の文化から学ぶことがさらに大事になった。この異文化交流の活動において、平凡パンチと他のマスメデイアが大きな役割を果した。平凡パンチの内 容はプロレタリアのトピックで民衆対象だった。さらに、国際的な意識を持っていた。アートと国際政治についてもよく述べた。日本と外国の交流を促進する役 目を果した。国際交流がもっと盛んになれば、戦争を繰り返すことは起きない、という思想があったからだ。 日本にとって‘60年代とは、非常に大事な転 換期を迎えた年代である。日本の近代をもっと理解するためには、その当時の思想と文化をさらに深く研究することが必要だと思う。
参考文献
平凡パンチの時代失われた六O年代を求めてマガジ ンハウス編
Tokyo, Japan: Heibon Panchi Magazine House, 1996.
Hein, Laura. Reasonable Men, Powerful Words: Political Culture and Expertise in
Twentieth-Century Japan (Twentieth Century Japan the Emergence of a World Power). Berkeley: University of California Press, 2004.
Wikipedia. See: http://en.wikipedia.org/wiki/1964_Summer_Olympics.
京都議定書
マイク・ク ラフト

1997年 の京都議定書は国際法律としては一番重要だといえる。議定書のテキストは温室効果ガスの排出量を制限するものであると理解されているけれど、もっと大切な 経済的、環境的な目標達成は、税金と法律の代わりに環境を傷つける権利を交換したり環境を傷つける責任を取ったりするために、前にはなかったところに市場 を作り出すことだ。
議定書は 1992年国連のリオ・デジャネィロでの会議で世界温暖化と汚染と戦うために生まれた。たくさんの会議と議論後、1997年に京都議定書が書かれた。議定 書によると、参加をしている国は2008年〜2012年の温室効果ガスを1990年の排気レベルから5%下げなくてはいけないそうだ。議定書は法律として 排気量削減の目標を作って、その目標を達成するために、参加をしている国にあらゆる手段をとることを強制する。議定書の採択をやさしくするために経済的な 仕組みも作られた。仕組みのひとつとしてクリーン開発メカニズムがあげられる。クリーン開発メカニズムというのは新しい工場を作ってその工場が前より汚染 をしなかったらそれは排気量削減の目標量に含まれるということだ。もうひとつは共同実施という仕組みがある。これはある国がほかの参加している国に排気量 を下げるために協力したら両国の目標量に含まれるということだ。三つ目の仕組みは参加している国の間での排出枠の一部の交換を認めていることだ。
これらが京 都議定書の大切なところだ。議定書は排気量を制限するために排出枠を国に割り当てる。この議定書に参加している国は先進国だけだ。そして国はその排出枠を 工場に与える。国と工場は排出枠を好きなように交換できる。排気が少なくなると世界温暖化と汚染がなくなる。でもどうやって参加国に排出枠を与えればいい のか。平等の割合で与えたら問題がある。資源の多い国の排出枠が大きければ大きいほど汚染がなくならない。この問題を解決するため資源の少ない国のほうが より大きい排出枠をもらう。しかし議定書の問題のひとつは施行だ。ある国が排出枠を超えたらどうしたらいいかはっきりしていない。
この過程と 法律は環境にとっていいけれども、議定書がどういう風に環境を助けるか証明していない。これを理解する前にまず所有と金銭的な評価を議論しなければならな い。何か物を持っていたらたぶんそれに対して価値が与えられるだろう。だが誰も環境を持っていないので正確な金銭的な価値が与えられなくて大問題が出る。 たとえば石油会社がエネルギーを作った場合、エネルギーの値段に会社の経費が含まれているけれども、環境に傷をつけた費用が含まれていない。なぜなら水と 空気の所有権がはっきりしていないから環境につけた傷が計りにくいからだ。京都議定書が本当に制定するのは水と空気の所有権を国と工場に与えることだ。所 有権が与えられたら環境がどんなに傷ついたか計れるようになる。その結果として、計画では時間がたつにつれ排出枠と汚染が少なくなる。
この考えを 示すため別の例をあげる。それは世界の貧困と汚染は開発途上国が資源を産出することと先進国の資源の利用に繋がっている。なぜ先進国は開発途上国から資源 を輸入するのか。値段が安いからだ。なぜ値段が安いのか。法律と所有権からだ。先進国が自国の資源を売ったら、いい法律があり経理がきちんとしているから 値段に減価償却費と経費が含まれている。その一方開発途上国には所有権をよく表している法律がないのでその国で誰か(農園者、会社)がその所有権がはっき りしていない土地(熱帯雨林)から資源(木、石油)を取って売る。売る値段は正確に経費を反映しないから開発途上国は安く大量に売るために資源を取りすぎ てその材料で先進国が汚染を作りすぎる結果となる。
京都議定書 は理想的ですばらしいけれど、発効していても議定書の未来が見えない。世界で一番排気ガスを作る国(米国)が議定書をまだ批准していないし、世界温暖化は もう起きている。そして施行はきっと大問題になる。しかし効果があるかどうか分からないけれども、議定書は世界温暖化と汚染と戦うための初めての対策とし ては悪くない。
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坂口安吾の 天皇制思想について
マシュウー ブラック

坂口安吾は天皇制に対してとくに独創的な批評家として有名だが、アメリカでは名前さえ知らない人も多い。坂口の一番重要な発言は1946年の18ページの 「堕落論」という文書に違いないが、その中で非常に印象的、かつ複雑な考えをを書いている。自殺や忠臣蔵や平安時代を考えてみてもて、天皇を尊敬すること は日本的な考え方でもなければ, 封健制度のなごりでもなく、単に政治的な力の形に過ぎないこと論じている。挑発的な言葉で、
天皇制の基本 原理を批評して、複雑な分析を書いている。安吾の考えは、戦後の憲法の原理と共産主義の正統派を直接的に否定するので、普通アナキストとして扱われるが、 アナキストの論者を引用していないし、GHQの厳しい検閲もあったから、アナキストとなることは全く無理であった。堕落を抱くことが 必要だと言いながら、除隊され闇やとなる歩兵士、愛人を奪い取る未亡人は人間性に従っているのだと言う。
しかし、安吾が創造した人間性は、気楽な楽天性と暴力的な欲がまじったもので、「美しいものを美しいままで終わらせたいということは一般的な心情のひとつ のようだ」という。安吾は、戦時の政治家に対して、天皇は神ではなくて、ただ権力の象徴であると言っている。彼の結論は戦後の憲法における天皇制と非常に 違って、驚くべきことである。個人が自分のために新しい天皇制を建てるべきだという結論を下す。天皇制ということは非常に説明しにくい概念である。特に戦 後は、実際に存在するかどうかということでも論争の余地が
あった。戦時 中の天皇制は主に政府の合法的な存在と言えるけれども、どんなに説明しようとしても、心理的な面も見えて、そして臣民の信念とも関係も見えてくる。戦後の 憲法によると、そういう信念はもう必要ではないし、ある意味では無理な考え方になったが、六十年代から、右翼の暴力団が 天皇を批評した本を出版した出版 社を襲ったせいで、天皇を公的に批評することはまだ珍しくて、時々危ない行いである。それに、戦後のいわゆる無害である、象徴的な天皇制という概念は完全 に問題を解決したとは言えない。丸山真男が書いた「日本における超国家主義の心理的な構造」「日本語の題を調べて」によると、戦時中の日本には、本当の意 味での近代的な主体が存在しなかったので、欧米の自由主義のような政治的な制度が発展することができなかったため、日本の超国家主義と軍国主義は自然の成 り行きであった。
丸山の考えはマルクス主義とアメリカの軍隊政府と非常に似ていて、きわめて一般的な言い方であるため、ある意味では戦争の責任問題がわからないままだ。そ のような論争は日本の歴史を一般論の下に扱っている。このような一般論を否定するために、安吾はもんだい(問題)を正しく解決したとはいえないが、問題解 決の新しい糸口を提示した点では大切な思想家であることは確かだ。
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JETプログラムの経験について
ローザ・ソブリノ
1. はじめに
コロンビア大学に来る前、2002〜2004年まで仙台市の国際交流員、いわゆるJETプログラム(The Japan Exchange and Teaching Programme)のCIR (Coordinator for International Relations) をしていた。JETプログラムというのは「語学指導等を行う外国青年招致事業」で地方公共団体が総務省、外 務省、文部科学省及び財団法人自治体国際化協会 (CLAIR) の下に1987年度に開始したプログラムである。今年で18年目を迎え、JETプログラムの事業は驚くほど大きく発展してきていた。参加者は848人から6,103人に増えてきて、国も4ヶ国から41ヶ国にも増加してきた[1]。CLAIRの2004年度の情報によるとJETプログラムを終了して帰国した卒業生有志の数は30, 000人も超えた。このデータを見れば、JETプログラムは大成功だと言えるが、学校で英語を教えることが仕事だけとは速断できない。 実はこのプログラムの目的は外国語教育の充実を図ることだけではなく、地域レベルでの国際交流を推進することでもある。能率よくその目標を果たすため、JETの職種は三つある。先に述 べた国際交流活動に従事するCIR以外に小学校・中学校や高等学校で語学指導に従事する外国語指導助手(ALT)とスポーツを通じて国 際交流活動に従事するスポーツ国際交流員(SEA)である。その中で一番人数が多いのはALTであり、(2004年度の職種区別による参加者合計:ALT:5,567人、CIR:512 人、SEA:24人)[2] そのために日本国内でJETプログラムの参加者はALTと同義になってきている。また、JETプログラムの職種は一つしかないと考えられることも多い。もちろん、三つの職種の目的は 同じであるがそれぞれの職務内容は違う。この点はJETプログラムの大事な点なのでCIRのことについて説明したいと思う。
CIRの仕事内容

CIRという仕事の内容は一般的に言って、「国際交流」を支えることや「国際化」をすること だ。CIRたちは国際化を広げるために国際理解講座などを通じて国際文化を教えることを目指してい る。CLAIRによるとCIRの職務内容は次の通りだ:
1.契約団体の国際交流関係事務の補助(外国語刊行物等の編集・翻訳・監修・国際交流事 業の企画・立案及び実施にあたっての協力・助言、外国からの訪問客の接遇、イベント等の際の通訳等)
2.契約団体の職員、地域住民に対する語学指導への協力
3.地域の民間国際交流団体の事業活動に対する助言、参画
4.地域住民の異文化理解のための交流活動への協力
5.その他
上記は表現上はきれいだが少しあいまいでCIRのことをはっきり説明して いない。その理由は契約団体により、職務内容は異なるからだ。 具体的にCIRの仕事の内容はどういうものかということをもっと知りたかったら例を見ざるを得ない。私 にとってよく経験があるのは仙台市国際交流課と仙台国際センターのCIR仕事なのでこれについて説明したいと思 う。この例を見れば、CIRの役割などをもっと分かるようになると思う。
仙台市 のCIRの仕事内容
仙台市CIRの仕事にはいろいろな職務が含むっているがその中で主要なのは市民センター訪問、通訳・ アテンド、カウンセリングと学校訪問だ。

市民セ ンター訪問
仙台市には、多くの市民センターがあり、地域レベルの国際理解推進のため、外国文化講座や外国語講座を開 講している。市民センターの訪問には、準備と打ち合わせが必要となって、だいたい日本語で行うことになる。この行事で自分の地元の伝統的な祭り、食べ物、 踊りなどを紹介する良い機会である。
通訳・ アテンド
仙台交流政策課では、英語嘱託常勤しているが姉妹都市訪問、大イベントがある時、通訳サポートの仕事をするわけだ。毎年で行う行事としては、仙台ハーフマ ラソンと仙台市の姉妹市からの訪問団体受け入れなどがある。
P.A.カウンセリング
仙台のCIRたちもPA(Prefectural Advisor)としての役割がある。PAとして、仙台のJETALTたちからの相談電話対応や実務的支援をするなどの義務がある。年に2度PA研修セミナーが東京で行い、そこで緊急時の対応や特定のタイプに関する対応の仕方などのワークショップなどがある。
学校訪 問
インターナショナルデーや休日行事の際に行われる学校訪問は、英語のみ、または日本語と英語の両方を使うことになり、ALTと一緒にやる。時々CIRは文化についてのプレゼン テーションを仙台市内の公立学校から依頼されることがある。その発表は日本語で行うから、かなりの日本語能力が試されるものである。個人の計画、相談、 ミーティングなどが必要だが、ALTのインターナショナルデーの代わりに独創的に行うことができる。このようにCIRの仕事も価値があり、JETプログラムの目的に目指し ている。いろいろな草の根レベルの国際交流行事を計画したり、周りのコミュニティーとの相互理解を増推したりする。
私の経 験について:アメリカの多文化とは?
前述べたようにCIRをしていた期間で色々な興味深い経験をした。しかし、その中で一番面白かったのは学校訪 問だったと思う。なぜかと言うとアメリカの多文化を説明することの難しいということや、日本社会が想像しているアメリカのイメージが私の持っているイメー ジと異なっているからだ。いつも学校訪問をすると、日本人の子供たちが「アメリカ人ってどういう人ですか」とか「典型的なアメリカ人の家族とは」という質 問を聞いた。私はアメリカに生まれ育ったが、その質問に答える言葉は見つからなかった。思ったより難しかった。合衆国に典型というものがあるのだろ か…文化をひとくくりに見ようとする考えに向き合うことができるのだろうかというふうに答 えに困った。その時、自分のこと、自分の人生について話すことにした。それしか分からなかったのからだ。要するに、仙台での学校訪問の経験は日本の文化だ けではなく、アメリカ国民であることの意味を考えさせるきかっけになった。アメリカは広い国であり、色々な国から移民した人がいる。そのため、アメリカ人 という者は何だろうか?アメリカの場合、本当に複雑と思う。今もまだそういうことを説明できないし、はっきり分からないが、そういうことを自問するように なった。
人に「母国」 ということをどう考えるかと聞いたら、誰も具体的に答えられないのではないだろか。
終わり に
このようにCIRは日本の国際化とJETプログラムの中に大切な役割がある。日本のいろいろな市民とお互いに自国文化・異文化を 理解を深めることを目指しているからだ。
Columbia University Japanese Language Program
